アルベルト・アインシュタインの論文を読む

アインシュタインの論文に関する独断と偏見に満ちた読後報告です。

余談(その1)

 ゴールデンウィークまっただ中ですが、私は一向に減る気配がない新規陽性者数に臆して家に引き籠もったままでネット三昧です。インターネットで手にできる情報の 99% はゴミであるという話を聞いたことがあります。情報源がそれだけいろんな意味で想像を絶するほど多いということなのでしょうが、悪質なサイトやSNSでの誹謗中傷のニュースを聞くとそうなのかも知れないという気持ちになります。でもそうだとすれば私のこのブログもゴミに過ぎないのだろうということになり、逆に気が楽になります。そうとは知らずに読んでくださる方々も、結局は自己責任で事の善し悪しを判断してくださっているでしょうから、少々のほらは許してくださるのかも知れないという甘えが生じます。


 で、このような投稿となりました。まあ、これは言い訳です。実情は他愛ないことです。あと少しだというのに、アインシュタインの論文を単に読みあぐねているだけです。私には困ったときの神頼み的な書籍があります。朝永振一郎氏の量子力学と日本からの流出頭脳の代表のような方の一連の書物がそれです。先日もアインシュタインの論文を読んでいるときに、どうしても流体力学の応力テンソルに関する解説が必要になり、くだんの書籍を参照しました。案の定私にも分かるように説明が為されていました。でも今困っていることには御利益がありません。


 さて、物理学では、ある量を解析する上で、ある助変数についてテーラー展開したうえで、その助変数を微少量として高次の項を無視するというやり方が散見されます。アインシュタインの論文にもそのような記述があります。例えば液体中の半径Pの剛体球が液体の運動に及ぼす影響を知ろうとして速度場を考察するとき、元々微少量であった速度場の変数 ξ,η,ζ について、

便宜上,Pは“有限”とみなすが,球のために生じた液体の運動の変化がもはや感知できないほど小さくなるような ξ,η,ζ の値はすべて,“無限に大きい”ものとする.

などという仮定がなされます。ξ,η,ζ の値が大きくなったところでの速度場の振る舞いを評価する必要があるからです。こんな都合の良いことが出来るのは実数の性質に他ならないのだろうと思われます。


 しかし、観測や計測によってある量の値を求めるとき、私達は有理数しか扱うことが出来ません。例えば、昔ながらの寒暖計で気温を測ったり、30cm の物差しで長さを測ったりしたとき、私達が手にする計測値は有理数です。しかも目盛の 1/10 までを目測するという暗黙の了解があります。従って“微少量”については、おのずと計測装置のもつ目盛の 1/10 以下のものを指すと考えられます。しかも、1桁どころではなく、数桁以上小さいというイメージすらあります。実験的には、計測値というものは計測装置が持つ特性としての“スケール”に依存するのは明かです。


 それを踏まえた上で、理論的には実数に埋もれている有理数をたまたま計測したような顔をして、量と量の関係を実変数の実数値関数として解析を進めるのだろうと思われます。こうすることで数の四則演算の他に、微分積分といった計算方法が使えるようになるからでしょう。しかも自由自在にスケールをその場で変更するという暴挙に出ることも可能です。手元にある 30cm の物差しでは太陽系の天体の大きさを“微少量”と考えることには無理がありますが、私達の銀河系の差し渡しを1目盛に採用たような物差しでは、太陽系の天体の大きさを“微少量”と考えて差し支えないことになります。


 古典力学を学ぶとき、δ関数的な質量密度の存在である質点の振る舞いについて学びます。これがとても上手くようです。考察対象のスケールではそのものの大きさが計測不能になってしまうような小さいもの、つまり目盛の1/10以下の大きさであるものについては、その位置を特定できても、大きさまで特定できません。それを質点と考えてその振る舞いを考察することになります。


 しかし世の中に落とし穴は何処にでもあるものです。そのような考え方が通用するのは考察対象に物差しを当ててその大きさを計測する可能性があるからです。大抵のものは考察対象と同じ速さで追いかければそれが可能です。ですがそうもいかないものがあります。光の粒子や質量を持たない粒子はどうでしょうか。同じ速さで追いかけることが出来ません。また同じ速さで追いかけて目盛の 1/10 以下の領域に押し込めることができたとしても、いろんな速さで動いているとしか思えないものもあります。考察対象をδ関数的な質量密度の存在である質点と見做して古典力学で取り扱うと理論が観測や実験を再現しないことが起こりえます。こうなると質点の性質を変更せざるを得なくなります。


 ところが更に都合の悪いことに、変更せざるを得ないところが初めから分かるわけでもないところに私達は困ってしまうのです。試行錯誤の末、こうすると上手くいく的なものが見つかったとき、上手くいく理由を探していくと、変更せざるを得ない所が見えてくるということのようです。とは言っても一向に変更せざるを得ないところが見えてこないことも多々あります。コロナ禍のように世の中一筋縄ではいかないことばかりです。

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